昭和50年03月18日 月次祭



 今日は久し振りで夕方のやがて七時近く迄、お参りが続いておりましたから、とうとうお食事をして一服をしよったら、お風呂に入る時間もなくてこのお祭りを奉仕させて頂きました。何時も四時の御祈念をさせて貰うて四時半に下がるんです、所が下がらせて頂いた途端から遠方からのお参りがあったり、次々と又私とでなからなければならない人があったり、要約下がろうと思ったら電話が掛かって来てそれも福岡からなんです。
 今からでも先生に是非お見えに掛たい、お礼に出たい、又人を導いて参りたいから、御結界にあの、御結界に座っておってくれとは言われんけれども、お会いが出来る様にと言う事でした。それからまあお風呂を頂いて、ご飯でも頂いて裏でお取次ぎでもさせて頂だこうと思うておりましたら、どっこい次から次とお参りがありますから、とうとう七時近くまで下がる事が出来ませんでした。お食事して一服しよったら、とうとうお風呂にも入らんなりに今日はお祭りを奉仕させて頂いて。
 しかしもう本当に、神様にそうして、通一杯終日お使い回しを頂けると言う事は本当に有難い。特に私の場合にはそこに人が助かると言う事に繋がるのですから、もうこんなに有難い事はないですね。今日の福岡から今からお参りをしたいから、お礼に出たいから、私におって欲しいと言われた方の事で御座いすすけれども、この方はある教会に熱心に長年金光様の御信心を頂いておる。時折まぁあのお伺いがある時など参ってきよったんですけれども、丁度一月前に東京行きをなさって、東京で倒れなさった。
 それから医者も難しいと言う事になり、それですぐ自分のお取次ぎを頂いておられるお教会にお参りになられた。お願いに。そこの教会の先生は非常に霊徳に優れたお方である。神様から色々お知らせを頂かれるのです。それであの子供さんがおられませんから、姪御さんを自分の家においておられる訳で、姪御さんが教会にお届に出られた。所が是はね、今度はもう生きて帰るとは思うなと。そういう大難だから、まあその方の先生から言われるのは中々あたるそうです。
 そのあたる先生にそう言われたからですね、東京の方からあのう医者の言う事もまあ、受け合えんと言う事。金光様にお参りさせて頂いたら、もう生きて帰って来るとは思うな。だからもうその準備をしておくが良かと言わんばかりの事であった。まあ関係の方達、親戚の方達も大きな事業をやっておられますから、女ながらも、ですから大変心配をしてそんなら、もう一遍合楽の金光様にお願いしてはどうかと言う事になったんです。丁度私は北野の御信者の宅の宅祭りで。
 丁度何時も四時半に下がりますから四時半に御迎えが来る様にしておりました。所が次々とお参りもあるが、迎えに来ませんもどうした事か。とうとう此処で一時間、もう用意をして私と繁雄さんと家内と三人待っておるけれども、呼びに来んのですよ。どうした事だろうかと言っておりましたら、その今の姪御さんが、おばが東京でこうして倒れて、大変な重体で御座いますからというのですから、それはおかげを頂くよて、私は申しました。何故かと言うてね。
 実を言うたら私は今日は此処には一時間前におらなんはずがね、今日はどういうもんか向こうから迎えにもこないし、次々と用があって出られなかったが、丁度あんたのお届を神様が待って下さる。おかげを下さろうとする神様の働きがね、言うなら此の様に素晴らしいタイミングの中にそれを私は感じる。神様は受けて下さったよ。まあ信心はないけれども、姪御さん涙を流して喜んで帰った。おかげで一月後に先日、無事退院のおかげを頂いて帰って来て今日御礼参拝であった。
 中々大きな、このお方ですけれども今日ばかりは、それこそおかげで合楽の先生のお取次ぎのおかげで命を頂きました。と言うて今日はそういう喜びの御礼のお届が御座いました。私は別に神様からお知らせを頂いてどうじゃないのですけれども。私がお知らせを頂くと言った様な小さい事ではなくて、天地その物の働き、天地その物の働きがです、ね、私にそういう確信を持ってお取次ぎをさせて下さる事が出来たのです。
 素晴らしい神様のおかげが受けられんなら、はあしもうた一足違いで親先生が今出なさったと言う様な時になって来るのです。今日は午後四時半からお取次ぎは皆そういう方達ばっかりでした。もう此の人達が終わったら立たんならんと、こう思っておる所へやって来る。又、立たんならんと言った思う所へ又参って来ると言った様な状態でしたね。いかに私がです、天地自然のいうならば働きそのものを、天地金乃神様の御働きとして受けておるかと言う事を、皆さん今日は聞いて頂こうと思うんです。
 そういう一分一厘間違いなく、神様が私の上に働きかけて下さる、と言う事はどういう事か。それは私が天地金乃神様の御働きを、大事にするからではないだろうかと思います。ね。いかに神様を大事にする。尊んでおりますというて、唯拝み上げたり祭り上げたりだけではいけん。その神様の御働きそのものを大切にし、その御働きその物を合掌して受けて行くという生き方を、私が段々身に付けて来たからだと思うのです。
 神様が物を言うて下さったり、お知らせを下さったりするよりも、もっともっと、自然の働きそのものは厳しく又は、厳格なのです。間違いがないのです。ね。今朝から朝の御理解に信心する者は、是から先どの様な事が起こって来ても驚いてはならんぞと仰る。この御教えに基付いての御教話でした。驚くなと言われても驚かずにはおられない事が、私共の行く手には必ずあるのです。それこそ場合には目の前が真っ暗になる様な事も起こって来るのです。ね。
 悲しい事も腹の立つ事も様々な事が起こってくる。信心する者はどの様な事が起きて来ても、驚いてはならんと言う事は、慌ててはならんと言う事。又は腹を立ててはならんぞと言う事でもあると思うのです。信心する者は是から先どの様な事が起こって来ても、悲しんでもはならんぞと言う事でもあると思うのです。けれども悲しまずにおられない。腹を立てずにはおれらない。ね。そう言う私は中に、驚かんで済腹を立てんで済、悲しまんで済と言った様な信心が段々身に付いて来る。
 信心する者は驚いてはならんと言われるから、驚くまいと思うただけでは駄目。驚かんで済おかげを頂く為には私共が日々おかげを頂いて、あの時にはああいう奇跡的なおかげを頂いた。あの時には本当に神様の働き、おかげと言わなければおられない、不思議な不思議なおかげを頂いたと言う事がです、ね、重なって頂いておるというだけでは、そういう驚かんで済という事は出来ません。ね。
 どういう様な信心をさせて頂いたら、驚かんで済か腹を立てんで済かと言う事になるのです。今朝からお話の中に、久留米の佐田さんのお話をさせて頂いたら、又その続きがあった。御理解が済んでお届をされる時に、実は先生あの問題はあれからこうでしたというお話でした。お届でした。お婆ちゃんが昨日から神戸に行っておられる。神戸の方からご親戚が見えておりましたから、良きついでだというので、新幹線も出来たと事だから是非一片行きたいというのが実現した訳なんです。
 神様にお願いをしてお許しを頂いた。所がお連れのその神戸の方から来ておりました、加西さんと言う方は往復切符を買って来た。そこで駅に買いに行った所がもう売り切れて、一枚もないと言う事であった。それから博多の駅に手配をさせて頂いて、した所がまあちょいと待ってみなさいと言われて、待っておった所が一枚だけあったというのである。神様の働きとお許しを頂いた。
 神様が許しを頂いたそればってん、切符は無かったと言うのではなくてね、お許しを頂いた。そしたらそのたった一枚の切符が手に入った訳なんです。はあ許された証拠と思い、言うてまあ駅まで皆さんを送ったんです。そこまで今日の話しでした。ね。そう言う何時もです絶えず、神様の一分一厘間違いのない働きの中におかげを頂いておるから、こう言う間違いのない働きの中にある事であるから、此のとても間違いのない神様の働きだと言う事になるのです。
 昨日一昨日総会の時に、七班でしたか、におられた安藤さんの息子さんが発表した事を皆さんが大変感銘された。ね。お父さんがもう大変な酒好きでその酒の為に所謂、大変な乱れ方をするいうなら病気であった。おかげを頂いてここ二三年お酒を一滴も頂かんと言う程におかげを頂いておる。そのお父さんが、まあどうした事であったか、それこそ天魔が見入ったのか、その今まで断酒をしておった、そのそれをたった二杯飲んだ所が、その何年振りに飲んだ所がちょっと酩酊した。
 自動車で行っておる。それも自分の自動車で帰って来れば良かったけれども、横どににあるとば乗って来た。それでその無くなした人は盗られたと思うて盗難届を出した。それで自動車泥棒として、捕まえられた訳なんです。所が色が同じ自動車やったげなたい。ね。さあそこに家ではその息子さんでも、奥さんでも大変心配をして、まあ酒の上の事であったからというのでね、丁度それが夜中の二時頃です。大体解決したのが。所がその自動車がね、隣の人のじゃった。
 その隣というてもその村の事ですからね、向こうの方に、ちらちら火が見えるちいうごたっとの隣なんです。まあ顔も見た事もなければ知らんお家。その家のであったと言う事が分かったから、まあ夜中の内だけれども、まあ灯が電気が付いておるからというて、勇次君そこにお詫びなり、そのご心配をかけた挨拶に出たいと言った訳なんです。所が向こうではもう本当にこんなに遅くまでご迷惑かけて済みません。
 ちょっと上がって下さいというてもうそれこそお客さんの様に扱われて、まあ心安うなった。そしてそっから信心話しもさせて貰う。色々なそのまぁ返ってもてなしを受けて帰って来てからです、もう本当に信心が無かったっちゃ、ああいう素晴らしい家庭がある。是からは信心の言わば話し、時々是から是を縁にお付き合いさせて貰ましょう、隣り同士の事だからというてまあ言われたというのです。
 そう言う様な事を通してです、勇次君が感じとらせて頂いたのは神様にお願いをして、お取次ぎを日々頂いて起きて来る事は良い事悪い事、みな良い事ぞと親先生が言われるそれを目の当たりに実感したという発表をしたという。自分の思う様になった事だけがおかげと思うけれども、金光大神の御取次ぎの働きと言う物は目先目先の事ではない。十年経ってみなければ解らん事もありゃ。三十年五十年も経ってみなければ分からない事すらがあるのです。
  けれどもです、厳密を言うてです、御取次ぎを頂いて起きて来る事良い事悪い事、それは全部良い事なんです。お取次ぎを頂かずして起きて来る事、それはそれは良い事悪い事、みんな悪い結果になるのだと、いうならば是はもう、いうなら極言なのです。その事が分かった。はあ勇次君大した事が分かったねというて話した事です。その事。ね。私は金光様の御信心を頂いてね、ギリギリの所私はね此処ん所を頂く事だと。ね。だから例えばどの様な事が起こって来ても驚かんで済むのである。
 増して、日々一分一厘間違いのない御働きの中にね、神様のいうならば佐田さんのお話じゃないけれどもね、本当にお許しを頂いて無いはずの切符がただ一枚だけ残っておった。おばあちゃん許されて、今日今度は神戸行き東京行きが出来ると思うて喜び勇んで出た。さあ所がなんです。皆が送って奥様ちょっと出た所がそこに、買うて来たばっかりの切符がもうそこにあるげなもん。もう五分しかなかち。はあそれからもう駅から遠いでしょう。佐田さん所から、久留米の端から端まで。ね。
 一生懸命にやらせて頂いてもう汽車が出かかった所でしたけれどもです、沢山のもうこうね乗っておる人がおるから、その車掌さんにねこの切符を誰々にさんに渡してくれち。そんな事言いなさったっちゃどうこん分からんと言うておる所のそのガラスの其処ん所に、加西さんが乗っておられたち言うのです。だからおばあちゃんはまだその博多からの切符ですから、忘れておるとも何も知らなかった訳なんです。
 その時に佐田の奥さんが思うたて。もし是に切符が間に合わんごたる事があったら私は切腹するち思うたち。そりゃ腹を切ると言う事じゃないでしょうけれどもね、そう言う風に神様を信じておる。此処まで許されておるとがここから許されんはずはないてという、まあ、それこそ日々間違いのない働きを頂いておるからです、ね。是とても間違いのある事が、有る筈はないんだと確信が出来た。何カ月か前にそれこそ倉庫が丸焼けの時なんかでもそれこそ、可笑しゅうして可笑しゅうして笑いが止まらんち言う事。
 驚くだんじゃない。ね。私は信心折角させて貰うならね、それこそその位なおかげは一つ、その位なというとなんですけれども、そこまでは頂いて頂きたいと思うですね。その為には日々がです、神様の一分一厘間違いのない働きを、頂き現して行ける信心を身に付けなければならない。それにはどう言う様な事なのか。今朝の御理解の中に、昨日私はテレビを見よったら、テレビの何かコマーシャルをやっておる中に、大自然の働きと言う事をコマーシャルの中に入れておる。話しておる。ね。
 自然の働きの中には素晴らしくバランスが取れる様に出来ておる。それは小さい小動物とか、又は草木一本の上にでもその働きがあるのだという事を説明しておる。是はあのーまあー、なら小学校をでも出れば、本でも少し読めばすぐ誰でもそうだと言う事が解るのです。皆さんも知っておるんです。天地自然の働きと言う物はその様に間違いが無いんだと言う事。ね。それを私は一つの例で今朝から皆さんに聞いて頂いた事は、
 例えばシベリアから飛んで来る渡り取りがです、日本に向かって例えば飛んでくる。日本海を横切って来るのにです、一気に飛んで来る事は出来ないけれども、あの沢山な渡り鳥がね、もう此処ではもう翼が疲れたと言う所には必ず流木がそれこそ浮かしてあるという事であります。浮いておるのじゃないです。神様が浮かして御座るのです。それはその鳥達の為になのです。
 波の間に間に言わばその揺れて揺れられて、と私共は思うておりますけれども、神様がちゃんと、此処を通る時には、この木に止まる様にこの流木に止まるようにと、言う事が解るのです。羽が疲れて海の中に落ち込んで死んだという鳥はない。もう必ず鳥が疲れた頃には必ずそこには憩いの場と言う物が設けてある。その様に微に入り細に渡っての天地の働き自然の働きと言う物はその様に、微に入っておるのであるというのである。それをこの頃では人間が、そういう自然の働きを壊しておると言う事を言っておる。
 まして人間万物の霊長と言われ神様の可愛い氏子と言うて下さるのですから、人間の上にその様なよりもっと素晴らしい働きが起こっ、ある事も事実なのです。それを私共が自分得て勝手な事をして、言うならばね、こうやったらいうなら素晴らしいタイミングが生まれない。調和が生まれない。ね。言うならばバランスの崩れた生活を余儀なくされてあると言う事を私共人間、信心の無いものの姿だと私は思います。此処ではその事を明けても暮れても皆さんに聞いて頂くのです。ね。
 その為にはね私共が、天地の親神様を大事にすると言う事は、天地の親神様のおん働きそのものを言うならば、自然の働きそのものを大事にして行けというのが成り行きを大事にして行けであり、又は御事柄として御の字を付けて、行かなければいけないと言う事になります。そこから生まれて来るのが和賀心です。お道の信心は何処迄も、和らぎ喜ぶ心が信心の目当てである。
 天地書付が私共信心の目当てなん。だからどの様な場合でもどの様な事柄であってもです、和賀心という答えを出して行く精進をして行かなければいけない。和賀心が何時もかつもそう頂けれると、言う訳じゃないけれども、和賀心にならせて頂く為の精進をしなければならない。ね。御事柄として受けなん事は分かっておるけれども、御の字が付けられない場合がある。向こうに押し返そうごたる場合もあると言う事なんです。ね。そこで私は拝むと言う事だと、今日は皆さんに聞いて頂く。
 四方拝というのは正月の事を言うのですけれども、元日の事をいうのですけれども、ね、教祖様は元日の心でと仰るのですから、四方拝自分の周囲の一切を拝む。一切を拝む。拝めない事もあるけれども、それは無理をしてでも一つ有り難う御座いますを言い、合掌まあ一々拍手を打ったり合わせたりする事はいらんけれども、心にそれです何時も念じておると言う事なんです。
 その拝む心こそ、一切を拝む心こそ、大天地との言うならば大調和が生まれて来るのです。ね。その調和大調和こそがです、私共が願い願っておる所の素晴らしいタイミングなのであります。はあー此処に是が必要だがと言う時には幾らか集まって来る。お金でも是は絶対な事。ね。此処には甘い者が欲しいと言うたら甘い物が集まって来る。此処に辛い者が欲しいといや辛い物が集まって来る。
 それだけではない辛い物には矢張りお酒が、ならそのお魚まで付いて来る、甘いものというのならちゃんとお茶まで付いて来ると言う様にです、そういうおかげが此処には実際は、此処の目の前にはあるのだと言う事です。それを私共の心でキャッチして行くと言う事なんです。そこでです私共が本当に親を拝み子を拝みね、家内を拝み主人を拝み、お客さんを拝み、商品を拝みと言う様にです、本気で一つその拝む稽古をさせて頂く所から言うならば調和を崩さない、調和したその生き方と言う物が生まれて来る。
 今日丁度四時半に下がろうと思うておる所に十四、五分間送れた所へ、宮崎からお参り、今晩お参りになっておられます。昼の十二時頃付かれるという電話が掛かっておったけれども、心待ちしておったけれども、見えません。だからお月次祭に見えるだろうと思うて、おりましたら、久留米の親戚の方とご一緒に丁度、丁度私が下がらんで良かった。丁度あなた方を神様が待っておって下さったごたるね。
 というのが始まりであった。今日の。まあ色々とそれこそ初めてのお参りですから、お伺い事やらお願い事が一杯有りました中にです、最近家を変らなければならない。今まで四間あった所に、今度手付をうっておる所は三間しかない。そこでまあ別なお繰り合わせを頂きたいと言う様な事であった。その事を私が神様にお願いさせて頂きよりましたらね、それこそ歌の文句ではないですけれども、壁に書かれたあいあい傘も、過ぎた昔を思いだすというのは、都逸の文句ですよね。
 壁に書かれたあいあい傘の、あれでしょ傘を書いて、下に高橋さん何々さんとこう書いてある。ね。所謂あのあいあい傘を頂くのです。御理解にね、傘の下でも愛があればという事を頂きました。傘の様なああいう窮屈な中にあってもです愛があればそれが楽しいのだと言う事です。愛が無いから窮屈なのだ。愛がないからたった三つの部屋というて不足を言わなければならんのだ。その愛こそ私は合掌する心だと思うです。ね。
 お互い不平不足が出る時には愛が無いからなのです。一切の物と拝み合うと言う事もです、愛が無いから拝み合えないのです。神様の心と言う物を段々分からせて貰、神様の言わば一切の中に所謂神愛と、神様の神愛を神愛と悟らせて貰う時にです有り難う御座いますという御礼の心が生まれて来る。ね。だから私共はどうしても愛の心と言う物が心の中に、ね、段々出来て来なければ出来ない。好きな物は好きだけれども、嫌いな物は嫌いと言うのは本当の愛では無い。ね。
 此の事は良い事此の事は悪い事ではない。もう一切合切を愛で受けて行くという信心。有難い勿体無いで受けて行く信心の稽古をさせて貰う。そうせろではないそうさせて頂く稽古ですから難しい事はないのです。楽しい事なんでもなら拝んでさえ行きゃ良かですねと言う事なんです。それも拍手打ったり手をこうせにゃんと言う事じゃないのですから、自分の心の中に一切を拝んで受けて行こうという、腹を決めてそこから一切を拝み抜いて行く、いうならば金光様の御信心はね拝み出して行く事なんです。
 おかげを。ね。私がね、その福岡の今日の御信者さんのお取次ぎをさせて頂いた様に一月前に医者は難しいという、その霊徳を受けられた先生は今度はもう生きて帰って来るとは思うな。もう諦めておれと、こういうそれがあたったら素晴らしい事じゃったかも知れんし、ばってん本人に取っては悲しい事ですからね。ほりゃ私が言いなさった通りしなしゃったろうがのち、先生は鼻高高かも知れんけれどもね、死んだものはいかん。困る。ね。けれどもねなら合楽にというてお願いに見えた時にです、ね。
 私がなら神様にお知らせを頂いて、いや今度は生きて帰って来るとも何とも言わなかったけれども、そういう日々私は素晴らしい神様との働き合いというか触れ合いの中にです、そういう素晴らしいタイミングの中にです、だからどうして一時間も遅れちから、どうして迎えに来んじゃろうかと言うて不平も要らなければ不足も要らんと言う事なんです。そういう神様の働きがあって、そこへ言うならばそこに駆け込んで来るのが、ね、それこそ、無い命を助けて下さいと言う様なおかげ。
 そこで神様が受けて下さってある事が私が実感が出来れる。確信出来れる。だから今の願いは神様が聞いて下さったよと言う事になって来る。そういう働きをお互い日常生活の上にも現していけれる、それは金光様の先生にならなければいけんと言う事ではない。ね。佐田さんの例を取りますならです、そういう一分一厘間違いの無い働きを日々、そして例えばそんなら、さあー家が丸焼けになっておるのを見てからでもです、笑いが止まらんと言う様な心の状態すらが備わって来るのが信心です。
 信心する者は何事が起こって来ても驚いてはならん。信心する者はどんな事があっても腹を立ててはならんと言う事も同じ事。けれども立てなければおられん。驚かなければおられない。唯お取次ぎを頂いて時々をおかげを頂いておる位な事ではそういう心は生まれて来ない。そこでそういう私共はどの様な場合でも慌てんで驚かんで済む程しのおかげを頂く為にです、日々厳密にいうなら刻々神様のこういう間違いの無い御働きの中にある事であるから、此の事とてもおかげだと言う風に解るのです。ね。
 だから驚かんで済むのです。いや神様が是ば、焼きこくってしまってから次にはどげな物ば下さろうとしておられるじゃろうかと言うごたる心が起こって来るから笑わにゃおられん。それこそ笑いが止まらん。もう絶対そうなん。これ程信心をするのにどうしてこげな目にあわなんだろうか。こういう信心を一生懸命しよるとに、どうしてこんな火事になっただろうか、なんていう所にはです、又おかげを頂くとに骨が折れる。
 それからの佐田さん所の、言うならばおかげは本当に目を見張る様なおかげが続いておる。ね。いうなら焼け太りのおかげを頂いておられる。だからどの様な事が起こって来ても、驚かんで済むという信心を日々です私共がね、愈々本気で自分の周囲の一切を拝んで行く。拝めないのは愛の心が足りんのだというてです、愈々愛の心を心の中に培うて行きながら、ね、神様の素晴らしいタイミング。
 間違いのない働きの中に日々おかげを頂いておるのですから、普通で言うなら目の前が真っ暗になるような事が起こって来ても、そういう間違いの無い働きに起きて来る事であるから、是は困った事ではない、難儀な事ではないと心の中に、悟りが生まれて来る。そういうおかげを皆さん頂いて頂きたいと思います。愈々二十三日は春の御霊様のお祭りです。御霊様のお祭りを真心から一つ家族中でお参りをさせて貰うて。
 御霊様に喜んで頂くと言う事は、そのまま神様に喜んで頂くと言う事です。一つ本気で御霊様を大事にする。又は御霊様の喜びが帰って来ると言う事はこう言う事かという、良い体験を頂いて行く、まあーー言うならばチャンスでもある訳ですから、一つ愈々御霊様のお祭りを大事にする積りで一つ今から祈りを込めておかげを頂きたいと思います。
   どうぞよろしくお願いします。